女性史から見た「坂田郡おんな本能寺」 【14/11/28】

11月28日(金)に、米原市文化協会教養部主催の「米原市歴史文学
散歩Ⅳ」が開催されたので参加してきました。
今回のテーマは、女性史から見た「坂田郡おんな本能寺」です。米原
市庁舎をバスで9時に出発しました。すでに伊吹町や近江町からの参
加者が乗り込まれており、20名余りです。
今日の講師は、城郭研究家 長谷川 博美先生です。
今日も、バスの中で歴史をユーモアを交えて話をしていただけると参
加者は胸を膨らませています。 

バスは、最初に長浜豊公園に寄りました。ここには、羽柴秀吉の長浜
城があります。
女性史から見た「坂田郡おんな本能寺」の起点ですか。
初めは、どうしてか解らなかったですが、長谷川先生の歴史解説を聞
いていく内にその謎が少しずつ解けてきました。

天正10年6月2日に本能寺の変があり、そのとき長浜城は羽柴秀吉が
城主でした。ところが、秀吉は中国地方へ出兵していたため不在でし
た。信長を倒した明智光秀が、次に安土城や長浜城を攻めて来ると察
知した秀吉の母「なか」&妻「寧々」の逃避行を辿るのが今日のツワー
です。

長浜城を後にしてバスは、最初に「なか」&「寧々」が立ち寄ったとされ
尊勝寺町「称名寺」へ向かいます。30分程で到着しました
周りは田んぼですが、かつては尊勝寺城があった場所に称名寺が建
てられたようです。現在でも南側の平野神社には土塁が残っています。
又、北東には長さ200m位はあるでしょうか。土塁が残っており、その前
は湿地になっているので堀跡のようです。
田んぼのあぜ道をあるいていると、【メイコン滋賀(営)田川倉庫】の横
に「水となった街道」案内板が立っています。
かつて北国街道が通っていたことを示しており、城が重要な交通路に
面していたことが解ります。 
ここへ「なか」&「寧々」を避難させたのは、広瀬兵庫助であったとされ
、又称名寺の僧性慶も援助したとされています。

【長浜城~称名寺コース図】
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【紅葉がきれいな称名寺】
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【平野神社と土塁】
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【北東の土塁】
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【水田となった街道の案内板】
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次は、米原町甲津原へ向かいます。

【称名寺~甲津原~若いぶきレストランのコース図】
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途中、小室町を通過する際に小室城の案内板がありました。
現在は城跡は残っておらず、案内板のみです。 

【小室城の案内板】
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そこからトンネルを抜け草野川にかかる「天下橋」を渡ります。
(秀吉が天下を取ったと叫んだとされる橋)
ここは昨年、甲津原の治山城郭遺跡を見学したときに通った
道です。鍛冶屋町の外れから山道へ入ります。
道がくねくねと曲がっており、七曲りと呼ばれています。この
険しい道を「なか」&「寧々」は逃げて行ったのでしょう。
楽な道を行けば光秀の追手に捕まるので、敵を欺くためにも
この道を選んだのでしょうか。
何とか秀吉が戻ってくるまで、生き延びようとした必死さがみ
られます。 

バスは40分ほどで、甲津原交流センターに到着しました。
残念ながら冬季は土日だけ営業しているらしく休業です。 
隣に漬物加工をしているセンターの人がおられたので、お店
を開けていただきました。 
お土産を買い求める参加者もいます。

【甲津原交流センター】
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【茅葺の甲津原資料館】
前の柿の木は、葉も実も落ちてしまい坊主です。
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少し休憩し、歩いて治山城郭遺跡を見に行きます。
途中、洗面橋には能面が描かれています。
辺りの風景は、昨年訪れた時とほとんど変わっていません。
橋の下には、きれいな水が滔々と流れています。
今回の参加者は、治山城を初めて見る人が多く、「こんなところに城
があったのか?」と驚いていました。 
解説では、秀吉の城であったかは定かでありません。 
甲津原に滞在したとき、「なか」&「寧々」は能を鑑賞したようです。
ここまで追手がやって来るには時間がかかると兵庫助が思い、体と
気を休めるために村人に頼んだのでしょうか。 


【洗面橋の能面】
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【治山城郭遺跡】
後方の小高い丘が城跡
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見学が終ると、バスに乗り込み次は姉川ダムへ向かいました。
山々は、素晴らしい紅葉です。標高が高いので、鮮やかさが
違います。 
ダムの上で参加者全員の記念写真を撮りました。

【姉川ダム】
空の青さ、緑、赤、黄と目を楽しませてくれます。
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そしてバスは、山道を下り昼食の「若いぶき」へ向かいました。
ここで「山菜&いわな甘露煮」をいただきました。どれも新鮮で
たいへん美味しかったです。
昼食後、「ミルクファーム伊吹」で抹茶アイスクリームをいただき
ました。これも濃縮で美味しかったです。 

【若いぶきの昼食】
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甲津原で「なか」&「寧々」の逃避行は終りでなく、伊吹を越え
広瀬兵庫助に伴われ、美濃国広瀬へ避難したと伝えられています。

バスは、伊吹から迂回して、R365、R21を経て岐阜県揖斐郡へ向
かいます。池田温泉でトイレ休憩し、大野町の竹中半兵衛生誕の
を訪れました。揖斐川堤防を下りたところにあります。
秀吉の軍師として知られる竹中半兵衛重治。大野町公郷にあった
大御堂城で生まれたとの説が残っており、八幡神社の境内には誕
生之地記念碑が建っています。
「なか」&「寧々」の逃避行とは、直
接関係ないようですが、揖斐川町坂内広瀬へ行く途中にあるために
ツワーに入れられたのでしょう。 

【伊吹~池田温泉・竹中半兵衛生誕の地、広瀬城址のコース図】
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【竹中半兵衛の誕生之地記念碑】
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【大御堂城要図の碑】
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次に、兵庫助が避難させた揖斐川町坂内広瀬へ向かいます。
バスで50分ほど行くと、R303沿いに「道の駅夜叉ケ池の里」があり
ます。だいぶ山間まできました。そこで休憩です。
店内は、山の幸が豊富です。特に長い自然薯が有名そうです。又
、近くにダチョウを飼っているようで、珍しいダチョウの肉を販売して
いました。 

【道の駅夜叉ケ池の里】
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R303 沿いの駐車場から北に見える山が広瀬城址です。今日は下
から眺めるだけで城址には登りません。

秀吉が帰着するまで、兵庫助がこの城に「なか」&「寧々」を避難させた
ようです。当時、甲津原から険しい山越えをして、揖斐川沿いに広瀬まで
辿り着き安堵したことでしょう。今回は、甲津原から揖斐へは行けません
でしたが、その大変さがよく解りました。 
後に、秀吉は兵庫助の功績をたたえて広大な山林を褒賞として与えたよ
うです。

【広瀬城址がある山】
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今日の「坂田郡おんな本能寺」ツワーはこれで終わりです。
バスはR303 から木之本、小谷城戦国歴史資料館を経て、
米原市庁舎へと戻ってきました。

【小谷城戦国歴史資料館】
NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」から4年経つ閑散
とした資料館。ブームが去ると寂しいですね。
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お疲れ様でした。
今日のツワーは、今までとちょっと違って「物語風」であり、
長谷川先生の素晴らしい企画力に敬服します。

この女性史から見た「坂田郡・揖斐郡おんな本能寺」を軍師官兵衛
の脚本家「前川洋一」さんに書いていただければ、大河ドラマまで行
かなくても「短編戦国ドラマ」に出来そうですね。

そんなことを考えると夢があります。 

  


この記事へのコメント

くりきんとん
2014年12月04日 20:25
蒲生野46号がやってきました。(会費入金しないとね)巻頭は中井均先生「東近江の中世城館」だったのでワクワクで読んでます。名古屋も冷えてきました。いつも紅葉だよりいいですね。知らんところばかりで目をパチクリしています。
【ほのぼの】
2015年03月31日 10:49
広瀬兵庫助の末裔です。広瀬兵庫助の紹介を頂き誠に有難うございます。【本能寺の変と広瀬兵庫助】ブログ http://blog.ko-blog.jp/hyogonosukehiro/ を開設しています。よろしくお願いいたします。2015.3.31
2015年03月31日 11:39
【ほのぼの】さんコメントありがとうございます。
【本能寺の変と広瀬兵庫助】ブログ拝見しました。詳しく掲載されているのでじっくり読ませて頂きます。
【広瀬兵庫助 研究所】
2015年10月30日 05:30
広瀬兵庫助の生い立ちと氏名などについて
(1)広瀬兵庫助は、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬) 第17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。1624年3月15日に66歳で死亡しています。美濃国広瀬郷の広瀬家本家の出身です。
(2) 広瀬兵庫助は主たる通称名で、親の命名による本名は広瀬康親です。広瀬兵庫助は、康親→兵庫→兵庫助→兵庫頭宗直→西了と、戦乱の時代における複雑な諸事情で名を変えています。
⑶広瀬兵庫助の兄弟は、兄・康宗(康則の長男)、弟・了玄(康則の三男)、弟・九助(康則の四男)です。これは、広瀬家一族伝承の史料に詳細に記されています。
【広瀬兵庫助 研究所】
2015年11月01日 04:51
【広瀬兵庫助ら3兄弟は、信長に対抗して戦う】
広瀬兵庫助は信長に対抗して戦い、兵庫助一族伝承の広瀬家史料に次の通り記されています。
1.広瀬兵庫助の父・康則は信長家臣・稲葉一鉄に討死落城
⑴1572年6月13日、広瀬兵庫助の父の康則は、織田信長家臣・稲葉一鉄に攻められ第17代城主・康則は討死落城し、美濃国広瀬郷の初代・広瀬康述から代々受け継がれた372年間の長期の繁栄も領地を明け渡して幕を閉じました。
信長に内通していた広瀬城主・康則の老臣・東野大助の仕業だった。「東野大助によって領地は明け渡され、城主・康則の子孫は土民となった」と記されています。
【広瀬兵庫助 研究所】
2015年11月01日 04:54
【広瀬兵庫助ら3兄弟は、信長に対抗して戦う】
⑵明け渡した美濃国広瀬郷の領地は、その後9年間にわたり「横蔵寺の領地となった」とあります。信長の命で谷汲村の横蔵寺に代官させたと思料します。
広瀬兵庫助が信長から拝領した記録は全くなく、後述の通り1576年と1580年にも信長に対抗した行動の記録があります。この記録は、信長の家臣に攻め落とされた康則の次男・広瀬兵庫助が信長によって没収された領地を拝領することは100%ありえないことを物語ります。
【広瀬兵庫助 研究所】
2015年11月01日 04:56
2. 広瀬兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、信長に対抗
(1)1576年に、広瀬兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、本願寺(大坂石山)の顕如上人に拝謁、1572年6月の信長による第17代城主・広瀬康則の討死落城の無念を報告しました。そして、信長との抗争が続く一向一揆側を支援する本願寺の戦士として出陣し信長に対抗して戦いました。
【広瀬兵庫助 研究所】
2015年11月01日 04:57
(2)1580年にも、広瀬兵庫助ら3兄弟は石山本願寺に出陣し信長に対抗しましたが一向一揆側の本願寺が敗れました。(浄土真宗のことを他の宗派は一向宗と呼んでいました)
【広瀬兵庫助 研究所】
2015年11月01日 04:58
3. 広瀬兵庫助の生い立ちと氏名などについて
(1)広瀬兵庫助は、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬) 第17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。
1624年3月15日に66歳で死亡しています。美濃国広瀬郷の広瀬家本家の出身です。
(2) 広瀬兵庫助は主たる通称名で、親の命名による本名は広瀬康親です。広瀬兵庫助は、康親→兵庫→兵庫助→兵庫頭宗直→西了と、戦乱の時代における複雑な諸事情で名を変えています。また、その時の立場で名前を使い分けています。
【広瀬兵庫助 研究所】
2015年11月01日 04:59
(3)広瀬兵庫助の兄弟は、兄・康宗(康則の長男)、弟・了玄(康則の三男)、弟・九助(康則の四男)です。

ご参考までに ご連絡申しあげます。

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